最後に「あぁ、面白かった」って言いたいから

何回かの人生のステージを経て、いよいよ最後のステージがやってきました。 人生100年時代、どんなふうに最後の物語を作っていこうか。 このブログでは、最後に「あぁ、面白かった、ありがとう」と言えることを目指してシニア女性シングルライフを送る日々を記していきます。

「南海トラフ地震」その1.阪神淡路大震災の思い出

 

日本中あちこちで地震が起こっていて怖いですね。

テレビでは南海トラフ巨大地震について備えておくように、被害想定、などやっています。すごく恐怖をあおられているような感じ。
それじゃどうしろっていうのよ、という気持ちになります。

引っ越しでもした方がいいんでしょうか?

 

私は古い、細長いマンションの7階ですから、何かあったら崩れるか、倒れるかで終わりですね。終わりになるのなら、それはそれでいいと思っています。

何せ、60年以上生きることができいましたのでね。

それだけでもラッキーでありがたいと思っています。

人生は面白かったです。生まれて良かった。

けれど中途半端に生き残るのは辛い。

 

 

阪神淡路大震災の経験

 

30年近く前、尼崎に住んでいて阪神淡路大震災を経験しています。

あの時は新しいマンションの6階で、
震度6でした。

 

◎その時

 

早朝で真っ暗な時間。まだ布団の中でした。

大きな揺れと轟音が数秒?ありましたが、その時は恐怖というより、「キャーッ!何なに!?」と頭が真っ白なまま終わりました。何もない部屋で親子3人、川の字になって寝ていましたので家具が倒れてくる心配はありませんでした。

 

尼崎に引っ越す前は、静岡に住んでいて始終東海大地震の注意喚起を受けていましたから、懐中電灯はすぐに取り出せる場所に置いてありました。

少し部屋のふすまを開けて、隣の部屋の様子を照らして見ると、色々倒れて足の踏み場が無くなっているようでした。余震もありましたしすぐに動くのは危ないと判断し、しばらく寝室を出ず、明るくなるのを待つことにしました。

 

◎部屋の中と部屋から見た外の様子

 

ようやく明るくなってきて、寝室にしていた和室ふすまを開け、隣のリビングダイニングの様子を見ました。本棚は倒れ、冷蔵庫の扉も開き、ウイスキーの瓶が割れて匂いがプンプンしていました。トイレでは水がこぼれ、テレビはソファの上に乗っていました。

 ⇧(私が当時作っていたファミリーニュースの震災時部屋の絵です。 
   古いので汚くなってます。すみません。)

 

電気は通じませんでした。その日は水曜日で幼稚園のお弁当日だったんですが、ご飯が炊けてなくて「どうしよう!お弁当作れない!」と叫んでしまったことを覚えています。元夫に「ばか、幼稚園あるわけないだろ。」と言われて我に返りました。「あ、そうだよ....」。

こんな時でも女は現実的と言いますか、目先のことが気になってしまうのですよね。

 

ラジオは聞けました。

ラジオ好きだった私はあちこち部屋を移動したときにも手元で聞けるよう、ラジオに電池を入れて使っていました。寝るときは寝る直前まで聞いていたくて、枕元においていましからすぐにラジオを付けて情報を聞きました。

徐々に被害が分かってきて大騒ぎになっていくのを聞いて、私も事の重大さににようやく気付いてきました。

 

外を見ると隣の高校の校舎に亀裂が入っていました。近くの家では玄関ドアの外にドアを運び出す方がいらっしゃったり。(家の中のドアが外れたんですね)青いシートを屋根にかける家も出てきました。

 

ガスは使えたのか分かりませんが、どこかでガス漏れしているから使うのは危険だという声も聞こえていたので、使いませんでした。

 

→ 明日、その2に続く!